Back to top
Share

2011年3月11日、東日本大震災 – 私の記憶

カート・ハーン 11/03/2022 0 comments

2011311日。東日本大震災で犠牲になられた方々のご冥福を、MM411スタッフ一同、心より深くお祈り申し上げます。

あの日、これまで生きてきた中で感じたことのないとてつもない恐怖は、今でも強く思い出されます。日本に長く暮らす一アメリカ人として、当時の気持ちを綴った日記を今日も読み返しています。あの日を忘れることはできません。

渋谷駅前にそびえる高層ビル20階、背後に高いガラス窓のあるオフィスの一角で、私は仕事をしている。このビルは、まだ耐震基準ができていない1970年代に建てられた。ここ1ヶ月はずっと深夜を回っての残業が続き、体は疲れ果て、今週こそは仕事を早くに切り上げ、妻と一緒に家で夕食をとりたいと思っている。昼下がりの太陽が窓から差し込んでいる。

2011年3月11日、金曜日、午後2時46分。

揺れた瞬間はいつもの地震だと思った。最初の数秒は、これまで日本に住んでから幾度となく経験してきた普通の揺れにみえた。内なる声は、冷静になれ、すぐに収まるから、と言っている。20階建てのビルでは、足元から背骨にかけて、ビル全体が揺れるのをはっきりと感じた。揺れは止まらない。次の数秒間、完全に無力であることを実感し、恐怖に襲われる。オフィスの棚から本は落ち、書類は散乱し、同僚たちの叫び声と悲鳴が聞こえる中、心の奥底で恐ろしい問いを自分に投げかける。

読んだ覚えのないルールに反応し、何も考えずに机の下で会社支給の白いヘルメットをかぶっている自分に気付く。私は何とか手を伸ばし、机の上から携帯電話を取り、妻に「I’m OK」とメールした。携帯電話のネットワークがダウンする前に、メールが無事に届くことを祈りながら、メールが消えるのを見送った。

ビルはまだ揺れているが、最悪の事態は何とか免れたようだ。足はガクガクしている。恐怖のせいか、ビルの揺れのせいかわからない。周りの女性たちは気が動転し、大声で泣いている。泣き声や叫び声は私の耳に焼きつき恐怖が伝染していく。頭がクラクラする。窓の外に目をやると、隣の高層ビルが木のように前後に揺れている。神様がお怒りだ。

いつもの地震であれば、揺れは突如はじまり数秒も経てばすぐに収まる。だが今回はそうではない。オフィス内の悲惨な様子をみれば一目瞭然だ。今はこのビルから直ちに脱出することだけが私の人生だ。安ホテルのドア裏に貼ってあるようなラミネート加工された非常口の説明書が、急に目的をもっているようにみえる。避難手順だ。私は窓際に歩み寄り、窓の外を注意深く覗き込むと普段は交通量が多い渋谷駅前の通りには人が誰もいない。だがすぐに沢山の人々が四方八方から押し寄せ、建物から離れた場所に避難しはじめている。不気味で奇妙な光景だ。これが黙示録の姿だ。事態の深刻さが、波状的に襲ってくる。

私と同じフロアの人々は、階段の踊り場に向かって一斉に集まり、一列になって階段を一目散に降りていく。私も列に加わり一心不乱に階段を降りる。通路の壁が割れて剥がれ落ち、コンクリートの破片がそこら中に散らばっている。この建物にひび割れがあるとすれば、東京周辺にある多数の古い建物は一体どんな被害に遭っているのだろう。きっと酷い被害に違いない。一瞬で頭の中が恐怖でいっぱいになった。

20階を階段で降りたのは初めてだ。急いで地上に出ると、そこはまるで巨大な防災訓練のようだ。2人組でビルから出る人、立ち尽くす人、大量の人々が通りに続々と集まってくる。私もその流れに巻き込まれそうだ。私の所属するグループは次第にバラバラになり、私は人混みの中で1人になった。周りの見知らぬ人たちは何とかして知り合いの顔を探そうとしている。私は会社のマークが付いた白いヘルメットをかぶっていて、広場の向こう側に、同じマークのついた白いヘルメットを被った人たちがいたので合流した。今はこの白いヘルメットが命綱だ。広場では皆、携帯電話で家族に電話をかけているがうまくいかない。何とかネットに繋がり、妻にGメールを送信して少し安堵する。

地面が揺れる。余震だ。見上げると、頭上にあるビルの窓ガラスが揺れ、割れて落ちてきたことを想像し恐ろしくなったが、辺りには隠れる場所はない。ビルから離れると別のビルに近づいてしまう。何とか木の下に避難する。

ビルの気弱なレンタル警官のような男が雄叫びを上げ、皆に冷静になるよう必死にアナウンスしているが聞き取れない。彼は自分が何を言うべきか分かっていないようだ。私の会社のお偉いさんたちは広場の一角でこれからどうすべきかをコソコソ話していたが、一先ず社員を帰らせるということを何とか決定した。たったそれだけ?タクシーもない、バスもない、電車もない、見渡す限り渋滞。後で知ったのだが、オフィスの隣の席の同僚は、その後10時間かけて家まで歩いて帰ったそうだ。向かいの街では、アップル社が銀座ショップスタッフを一晩ショップに泊まらせ、食料と水とWIFIを提供し、大切な家族や友人たちとの連絡をつなぎ続けた。東京ディズニーランドのスタッフはお客のために暖をとり、棚の商品がなくなるまで食べ物や衣類を配った。アメリカの9.11同時多発テロで、アスベストのせいで息苦しんでいる人がスターバックスに水を求めた際、店員が代金を要求した話を思い出した。危機的状況を瞬時に理解し判断する企業もあれば、そうでない企業もある。残念ながら、当時私の勤める会社は後者で、危機管理能力の低さを思い知らされる。

安い白いヘルメットをかぶって、私は人混みをかき分け、会社のビルから離れ、家に向かって歩きはじめた。3時間くらい経っただろうか?電話はまだつながらない。妻にまたメールを送ってみるが応答なし。

道路には不気味なほど車がなく、まるで車が発明されていない時代のようだ。歩道の人の波が道路にまで流れ込み、通り抜けることができない状態になっている。誰も動いていないのだ。まるで東京中の人が突然、進軍命令をまって通りに流れ込んできたかのようだ。1200万人が一度に麻痺してしまったのだ。私はスピードを上げ、大通りの真ん中を迂回して歩き、一刻も早く広い場所に出られるようにした。この人混みにも恐怖を感じた。

30分程して歩道のほうに戻ると車が現れ、小さなバス停をみつけ、50人位は並んでいそうな人たちの後ろに自分も並ぶ。みんな必死で家に帰ろうとしている。20分経っても、いつもなら4-5台はあるはずのバスが1台もない。多くの人が諦め、歩いて帰っていく。私のような無計画な人間は不安な気持ちでまち、妙に他人の顔色を伺い、バスを期待して道の上を覗き込む。その場で即席の議論がはじまる。私の前に並ぶ男性は元JALのパイロットで、30マイル先の横浜まで帰ろうとしている。長い1日になりそうだ。

突然、始発のバスがやってくる。混んでいて乗れるのは数人。私は最後の1人だ。ドアがやっと閉まり、バスの中は大混雑だ。私は乗車口の1番下の階段に立っている。2段上の階段には5人いる。今まで乗った地下鉄の中でもこんなことはなかった。バスの窓からは、バス停に取り残された長い行列に並ぶ人々の心配そうな顔がみえた。自分が最後バスに乗って帰ることを申し訳ないと思った。酷い自己嫌悪に襲われた。

バスの運転手が運転しながら無線を通して指示を受けているのが聞こえる。バス会社はバスの運行を再開するとアナウンスしている。私の後ろに並んでいた沢山の人たちもバスに乗れるとわかり安堵した。私が乗った最初のバスの乗車率は200%以上だろう。すぐ隣の男性が携帯電話のテレビを観ていて、肩越しに震源地のライブ映像が映り、沢山の車が海へ流されていくのがみえた。私の頭では処理しきれない。私も調べてみると、アメリカの地質学者や気象学者らがマグニチュード9.0と言っていたので、思わず周りの人に伝えてしまった。このバスの中の見知らぬ集団に共通しているのは、果たして愛する人のもとに無事に帰れるかどうかという不安でうつろげな表情だけだ。私を含むみんなが孤独にみえた。

外を歩く人々はバスよりも早く歩いている。道路は渋滞している。通常ならバスで30分のところ2時間もかかり、自宅近くのバス停にようやく辿り着き降りると、とても奇妙な雰囲気が漂っている。2時間前と違い、人々の恐怖はパニックに変わっていた。人々は走り回っている。商店は店を閉め。唯一開いている1-2軒の食料品店は路上にまで長蛇の列が押し寄せている。まるで戦争がはじまるかのようだ。このような突然の事態に誰もが衝撃を受けている。

自宅マンションに到着

私は急いで自宅マンションに向かった。エレベーターが停止していたので、妻が無事に帰宅していることを祈りながら8階まで階段で駆け上がると、我が家は空っぽで部屋中が荒れていることにショックを受けた。すべての扉や引き出しは幽霊の後遺症のように開き、写真や小物が散乱している。妻はどこだ?

私は何も考えずに座り、できることからはじめた。妻からまだ電話はかかってこない。共有のGメールに送ったメールも既読になっていない。SNSはまだ届かない。何とか乗り切ろうと一心不乱に、永遠に続くかと思われたその時、ドアが開き妻が無事に帰ってきた。大学に勤務していた妻は春休みで補習にきていた学生らの対応に追われ、18時過ぎに大学を出て、とてつもない人混みの流れと共に1時間以上かけて芝から白金まで歩いて帰ってきた。

2人でテレビに向かい、目の前で繰り広げられる光景に体が硬直する。人や家、車が流され、また流され、みるのは痛々しくあまりに非現実的で理解しがたい。妻はずっと泣いている。テレビのアナウンサーは余震を感じると言い、その約10秒後にまた余震が起こり、24時間の間に約30~40回、夜中も20~30分に1回の割合で、何度も余震があった。そのたびに妻と私は、「余震が最初の揺れを超えることはない」と慰め合ってはいるが、心の中ではそうとは限らないことも分かっている。

午前1時頃、ようやく妻と2人でテレビから離れ、疲れ果てて眠りにつく。翌朝、状況はさらに悪化していることをニュースは伝えている。テレビでは私が聞いたこともないような東京郊外の原子力発電所からの放射能漏えいに関する報道で埋め尽くされている。爆発が起きて人々が避難している。電力不足で、電力会社が節電のために一定の地域を停電にしている。

今のところ、自宅マンションの電気は通っているが、ガスも水もない。スーパーは缶詰以外空っぽで、ガスボンベや懐中電灯などの非常用グッズはとっくに買い占められていた。しかし意外なことに、外でみかける人たちは怯えてはいても冷静だ。100人以上の行列を行儀よく並んでまっている。そして最後の食品を手にした人を誰も襲わず、略奪もない。海外の報道陣はこの状況に驚いているようだが、日本人はこの先の見えない恐怖と不安を共に何とか乗り越えようと、必死に見知らぬお互い同士助け合っている。

地震発生から2日目

仕事は暫くの間、在宅作業になるとの連絡が入った。テレコンで打合せもした。3月とはいえまだ肌寒くヒーターで暖をとっている。ガスも復旧し、妻も千葉の両親と無事に連絡が取れたが、実家では停電が続き、夜は懐中電灯と蝋燭で過ごし、海沿いの街は津波が襲ったと聞いた。いつ千葉に帰れるのか。妻の福島出身の友人の実家は大きな被害があったと聞いた。信じられないニュースが毎日飛び込んでくる。アメリカに暮らす姉から連絡があり、今すぐアメリカへ避難するよう言われたが丁寧に断った。日本には大切な義理の両親や親戚達が大勢暮らし、彼らを置いてアメリカに戻る気は全くない。夕食の焼鳥とご飯をレンジでチンしたところだ。マンションの敷地内に福島ナンバーの車が1台止まっていた。放射能を恐れ、友人の家に避難しにきたのかも知れない。一刻も早く悪いニュースが消え、余震が止み、放射能が抑えられ、生活が正常に戻るのをまっている。1日1日を乗り越えることに必死でいる。

あれから11年

未だ数多くの行方不明の方々が、どうかご家族の皆様のもとへ帰れるよう心から願ってやみません。ご遺族様、被災者様の悲しみ、心の痛みは計り知れず、皆さまに思いを馳せ、また今もなお復興に尽力されている方々へ敬意を表します。

MM411 APAC 統括責任者。日本のカンナビノイド医学教育発展のため尽力する。アジア全域のグローバル日本企業への人材及び組織開発の教育研修設計に従事。また名門ベンチャーキャピタル投資顧問会社セコイアキャピタル日本顧問、日経機関投資家アンケートトップ業界アナリスト入賞。CNN出演。早稲田大学・スタンフォード大学ビジネススクール

Post a comment

Your email address will not be published.

en_USEnglish